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導引術考6

2018.09.13.Thu.21:54
導引術考6
「早島氏はどうやって導引術を覚えたのか(その4)」


4.和方と古代支那の医学(皇漢医学)に源流がある


「人間は病気では死なない」(東京スポーツ新聞、1973)で「日本に古くからある医術は和方医学と呼ばれている。実をいうと、私の方法は漢方より和方に源流がある。」との記述がある。

また同本に「明治の初めに守田長禄という人がいた。この人は宝丹という薬をつくったことで有名である。(中略)さてこの人が明治28年に『天寿保全法』という本を出した。その内容は三脈の法の実践者の体験談を集めて収録したものである。」とある。

「続 人間は病気では死なない」(東京スポーツ新聞、1974)には「脊髄調整と按腹の法は日本人がつくった導引である」とある。

「江戸中期に後藤艮山(こんざん)という有名な漢方医者がいた。当時の医学書はどんなものでも導引について触れていた。しかし、いずれも帯に短したすきに長しで、艮山が実際の病気治療に応用するには、何かいまひとつ欠けていた。そういう疑問から考え付いたのが、この二つの療法で、やってみるとこの二つの方法をうまく用いれば、まずどんな病気にも役に立つことがわかった。」

「導引術」(徳間書店、1974)では「中山忠直という詩人がいた。どうしたはずみかこの詩人が『漢方医学の新研究』という本を出版した。『漢方医学の新研究』の中で、三人の女性が紹介されている。そのうち二人は、按腹の法で自分のリウマチを治した例としてあげられている。もう一人は看護婦の研究例で、入院患者があまり病気が治らないので、いったいなぜなのか解剖室で人体をよく観察した結果、按腹の法を考えついたという話である。」とある。

「導引術秘伝サケ風呂建康法」(ABC出版、1984)に「按腹の行法は、本当は和方(日本古来の医学)の治療技術である。この行法が一般に紹介されたのは、詩人であった中山忠直が大正末期に著した『漢方医学の新研究』という本によってである。そのため、この行法を漢方の治療技術だと思う人もいたようだが、本当は和方医が大切にしていた技術なのである。中国の導引の医学の原典にはのっていない。」とある。たしかに諸病源候論には按腹は載っていない。

「皇漢医学及び導引の史的考察」(昭和8年、石原保秀著)という本を、早島氏が並並ならぬ熱意で再編集した「東洋医学通史」(石原保秀著、早島正雄編、自然社1979)という労作本がある。この本の編者あとがきに「私の関心はもっぱら日本における導引の発展・普及の足跡をたどることにあり」とあり、これは早島氏が自分のルーツを探ったものと言えるのではないだろうか。

大高坂家の家伝だの、支那に行って覚えただの、それはまるっきりの嘘ではないのかもしれないが、早島氏の著書や東洋医学通史を踏まえた上での私の推理によると、早島氏の導引術は、養父(早島の父)や大東流合気柔術の影響を受けながら、和方と古代支那の医学(皇漢医学)に源流がある。早島氏は初期の著作である「容姿端麗入門」(アロー出版、1973)では導引術を「大東流導引術」とも言っており、「大東流で世界にゆこう」(松武館本部、1973)では「村上源氏直伝導引術」と言っている。しかし初期は反響がいまいちだったので、「慢性病が治る 導引術入門」(ごま書房、1981)頃からもっと一般受けするストーリーにシフトしていったのではないだろうか。
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導引術考5

2018.09.02.Sun.22:52
導引術考5
「早島氏はどうやって導引術を覚えたのか(その3)」


3.中国・台湾に行って覚えたのか?

早島氏の本を全部読んだわけではないが、最初期の著作は比較的本音・本当に近いと思う。しかし一般の人に対して導引術に対する説得力を持たせるために、自分と導引術にいろいろな箔を付けはじめて用語や表記が変遷し、昭和の終わりころに自己設定が完成したと思う。平成に入ってからの著書には、ゴーストライターの手が入っているであろう。昭和の本と同内容を繰り返している。

まだ自己設定が完成していない最初期の著書である「容姿端麗入門」(アロー出版、1973年7月)に「私が現在指導しているのは、村上源氏直伝の合気術と導引術である。」とあり、特に中国や台湾に行って習ってきたという記述は無い。

「導引術秘伝 驚異の不老回春法」(ABC出版、1984年8月)では、「その後(昭和35年、松武館開設後)、私は本場の中国で導引術がどのくらい普及しているかを知りたくて、台湾に出かけて行った。ところが、台湾では、ほんのわずかの技が細々と伝えられているだけであった。」「大陸の中国の方では、導引術はどうなっているだろうか。(中略)中国の伝統的な医療技術の専門研究雑誌である「気功雑誌」は、1981年8月号で、私が日本で発表した導引術の説明を翻訳して「日本道観道長 早島正雄 導引術十則」として紹介している。しかし、これらの専門雑誌を見ても、大陸の中国における導引術の復活は、前途遼遠と思われる。」とあり、早島氏は、古書は大いに参考にしているが、現代の中国・台湾から導引術を学んでいるような節は見られない。

いったい何の値打ちがあるのか「道家龍門派伝的第十三代」という早島氏を尊称するのみに存在する肩書があるが、これは台湾在住の道家龍門派伝的第十二代の江家錦氏に允可されたのだという。

これは、江家錦氏に認められたという程度の意味しかないのではないだろうか。台湾の導引術から学ぶものもあっただろうが、早島氏の導引術の源泉はもっと違うところにあるように思う。

導引術考4

2018.08.29.Wed.22:28
導引術考4
「早島氏はどうやって導引術を覚えたのか(その2)」


2.古書を読んで覚えたわけではない

「写真版 導引術入門」(早島正雄著、サンケイ出版1980)によると、「導引の書は、まるで推理小説を読み進むようなものだった。うつぶせの行法が仰向けの行法だったり、立ち技が座り技だったりしている。導引が行気だったり、行気が導引だったということもしばしばだ。」とある。これではもはや、早島氏の導引術は、皇漢医学の古書の原型を留めていないのではないのだろうか。

「続 人間は病気では死なない」(早島正雄著、東京スポーツ新聞1974)では、「中国から伝わった導引の本は残っていたのだから、それを頼りに本物の導引の研究を続けた人が何人かはいた。例えば、竹中通庵とか大久保道古などは、他人の手を借りずに自分の手で行う正真正銘の導引を熱心に研究した。(中略)だが私の見るところ、彼らはあと一歩というところで導引のもつ真髄をつかみあぐねている。」とある。

古書を読んだだけで、導引術がわかる人はいないだろう。早島氏も皇漢医学の古書を読んで導引術を覚えたわけではなく、読む前からある程度知っており、そして古書を参考に改良を加えたものと思われる。

導引術考3

2018.08.26.Sun.09:59
導引術考3
「早島氏はどうやって導引術を覚えたのか(その1)」


最終的に早島正雄氏の3本柱となったのは、導引術、動功術、洗心術である。このうち洗心術については、対応する悩みのレベルが低すぎて、私にはついていけない。

早島氏のいう動功術というのは、大東流合気術のことである。「大東流合気術」は「道家合気術」という名称に代わり、やがて「動功術」と称するようになった。「道家合気術(内功の巻)」(早島正雄著、自然社1975)という本もある。この本及び道家合気術について、月刊秘伝2007年11月号によると、「もちろん教授内容は、少なくとも武術体系に関しては、それまで指導されてきたもの(大東流合気術)と変わるものではなかった。八光流柔術の通信教育を別にすれば、松田敏美(武田惣角の高弟)伝の技法がここまで公刊書で紹介されたのは初めてのことだろう。」とある。

私の興味対象は導引術である。早島氏はどうやって導引術を覚えたのであろうか。

1.大高坂(おおたかさ)家の家伝なのか。あるいは早島家の家伝なのか。又はその両方か。

「不死鳥(大高坂家の人びと)」(川村晃著、日本道観出版局1989)によると、早島正雄氏の実母は、大高坂家の一人娘である寿美子さんで、その婿が実父の清広氏である。そして大高坂清広氏の親友が早島常雄氏で、この方が早島正雄氏の養父となる。

前述「不死鳥」によると早島家の先祖は忍者?らしく、養父(早島常雄氏)の死後、遺品の中から築城のための築地や石組みの図面や説明文が発見されたという。養父は、近所の人に頼まれるまま、独特な方法で病気を治していた。また柔術の達人でもあった。

早島正雄氏は、18歳の時(昭和4年頃か)に、実の父母、弟妹と再会している。だが戦時中に二人の妹は亡くなり、たった一人の弟と実母も昭和22年に亡くなったそうだ。実父の大高坂清広氏は、だいぶ前?に函館の軍港に移り、戦後も家族を捨てたような日々を過ごしており、早島正雄氏も実父を敬遠しがちになっていたという。

「不死鳥」を読む限り、大高坂家の家伝(なのか?)である導引術が、早島正雄氏に伝わっているようなニュアンスは感じられない。

導引術に関しては、養父(早島の父)の影響が大きいのではないだろうか。

また早島氏の出身地は、「導引術」(徳間書店、1974年7月)以降の著書では「高知県生まれ」となっているが、自己設定が完成する前の、最初期の著書である「容姿端麗入門」(アロー出版、1973年7月)では「鳥取県米子生まれ」となっているのである。

導引術考2

2018.08.08.Wed.20:44
導引術考2
「早島氏は自ら進んで癌になったのか」


早島正雄氏の著作には、導引術の威力を試すために、自ら進んで癌になって、導引術で治したというエピソードが良く出てくる。

「私は自ら胃癌をつくり、導引で治したことがあるが、そのときの反応は口から粘っこい液体を吐き続けるようなものであった」
(「続 人間は病気では死なない」 東京スポーツ新聞 P100、1974年2月)

「あるとき私は自分でガンをつくった。どうやったかといえば、二十一日の断食を二回繰り返し、その間にタバコをスパスパ吸ったのである。」
(「導引術」徳間書店 P114、1974年7月)

「あるとき、私は導引術の力をとことんまで自分でためしてみたくなった。そのためには、死んでもかまわないような気になった。そのころ、新聞や週刊誌でタバコが肺ガンの原因だと書き立てていた。ガンは手術が遅れると悪化して死ぬしかない不治の病とされている。(中略)実験するにはよほどのことをしないと、効果が無い。そこで、私は断食しながらタバコを吸い続けることにした。」
(「導引術秘伝サケ風呂建康法」ABC出版 P168、1984年2月)

しかし、初期の著作である「容姿端麗入門」(アロー出版、1973年7月)には以下の記述がある。
「断食をしている間にタバコを吸ったためガンにかかり、その時、頭の毛もすっかり真っ白になってしまったという経験を私はもっている。」(P26)

この文章からは、自ら進んで癌になったというニュアンスは感じられない。断食中にも関わらず、タバコを吸っていたら、癌になっちゃった、である。

真相はどうなのであろうか。私の推理はこうである。早島氏は、体調が悪かったので、断食で治そうとしたのではないのか(ただしタバコは止めない)。でも改善しなかったので、病院で検査したところ、胃癌だったのであろう。ただし、胃癌の診断を下した病院名は、「導引術」(徳間書店 1974年)によると、群馬県伊勢崎市の「伊勢崎病院」で、「導引術秘伝サケ風呂建康法」(ABC出版 1984年)では、群馬県太田市の「太田病院」となっており、早島氏の胃癌になったという証言がどこまで信用できるのかという疑問は残る。それから真剣に導引術をした結果、相当の期間、全快状態だったのではないのだろうか。

早島氏の初期から中期までの著作を読むと、自分の基本設定が完成するまでの過程が読み取れるのである。
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